(『理論心理学研究』第16巻・第17巻合併巻(2015年7月27日発行)76頁~77頁掲載論文)

「怒っている」とは何をどうしていることか
―感情的になることの意味:非力動的動機理論の観点から ―
What is it to get angry?

田嶋清一(立正大学心理学部)

1、本発表のポイント
 昨今、無差別殺傷事件など、怒りが根底にあると思われる事件が多く見られます。また、9・11や3・11などのトラブルを通して、争いや怒りが突発しやすい社会状況があります。そういう中で私たちは、自分の中で感じられた怒りをどう位置づけたらいいのか。そのことが私たちの課題になっています。湯川(2005)による怒りの定義を取り上げ、非力動的動機理論(田嶋、2013)の観点から、批判的に吟味して行きます。
 湯川によれば、怒りは「自己もしくは社会への、不当なもしくは故意による、物理的もしくは心理的な侵害に対する、自己防衛もしくは社会維持のために喚起された、心身の準備状態」であると定義されています。
 さて、この湯川の定義は、縄張り争いのような状況をイメージし、そのような場面で、相手を威嚇したり、攻撃したりするための、心身の準備状態として、怒りを考えるのであれば、確かにピッタリくるのです。
 しかし、私たちは日常、決して相手を暴力で威嚇しようとは考えていません。アサーションの考え方に立つならば、相手を威嚇しようとする攻撃的な自己表現でもなく、いじけた非主張的な自己表現の中でアパシーになるのでもなく、粘り強く相手と自分を共に生かすアサーティブな自己表現を心がけています。そういう私たちが、誰かに対して、何かに対して「怒っている」ということは、何をしていることなのでしょうか。
 このように振り返ると、湯川の定義からは、むしろ大事なポイントが抜け落ちていると考えられます。抜け落ちている大事なポイントは二つあります。第一のポイントは、私たちが怒りを感じているとき、「怒り」には、私たちが、そうあるはずだと考える、予想を超えた事実と出会っているのだ、という「驚き」(新鮮な発見)が含まれていること、これが第一のポイントです。第二のポイントは、私たちが出会った事実が、たとえ失敗や裏切りなどによって露呈した不快で受け容れがたく苦い事実であろうとも、その隠れていた事実(真実とも言えます)を発見しそれに出会うことによって、私たちがまだ気づいていなかった都合が悪い事実とその意味に気づく貴重な機会を、その「驚き」が提供していることです(例えばダイナ・ショアの事例参照〔田嶋、2013、p.9〕)。この二つのポイントは「義憤」などを考えるときに見えやすいのですが、どんな怒りの中にも「驚き」の萌芽は含まれています。
 ところが、湯川の定義からは、それらの認識が抜け落ちていて、それゆえに、突発的な怒りやその反動としてのアパシーが蔓延する現代において「突発的な怒りやアパシーを乗り越えるために、怒りをどう位置づけたらいいのか」を考える私たちにとって、この定義が役に立たないものになっているのです。このポイントを掘り下げるために、古代ローマのストア派の哲学者Senecaを、次章で取り上げます。

2、怒りの構造は二段階
 Seneca(41)によれば、怒りは二段階に分けられます。第一段階は、そうあるべきだ、という予想を超えた事態と出会っている、という思いによって起こる心の動揺です。怒りの第二段階は、その思いを受け取り、それを是認したのちに続いて起こる、復讐と攻撃に突き進んで行く心の激動です。ゆえに、怒りは教えさとすことによって退けられる、私たちの意思に基づく心の悪徳です。なぜなら怒りは、不当な扱いを受けたという思いによって引き起こされますが、怒ることへの理知の同意がなければ生じませんから、怒るか怒らないかは自分次第です。つまり、不当な扱いを受けたという思いと、その思いから自分を怒りへ明け渡してしまうことの間には距離があり、その距離の中にこそ理知、判断、意思の働く余地がある、とSenecaは述べています。私たちは、二段階に分ける考え方に立つことで、怒りが第二段階へ突き進むのを退けることができます。

3、怒りの第一段階はフラストレーションと等価
 フラストレーションとは、従来の心理学辞典で定義される「欲求充足行動が途中で妨害、阻止された不快な緊張状態」ではなく、「思いがけない事実に出会って、自身の見通しが損なわれた状態」、つまり意外感(こんなはずじゃないという気持ち)です(田嶋、2013)。なぜなら、妨害や阻止は見通しに組み込まれさえすれば何ら問題とならないからです。とすれば、怒りの第一段階(予想を超えるような事態と出会った、という思いによって起こる心の動揺)は、フラストレーション(思いがけない事実に出会って、自身の見通しが損なわれた状態)と等価(equivalent)です。
 さて、怒りの第二段階とは、Senecaによれば、不当な扱いを受けたという思いから、自分を怒りへと明け渡してしまうことによって引き起こされる心の激動を指しますが、そこで何が起こっているのかは、従来、必ずしも明らかにされていません。そこで怒りの第二段階で起こっていること及びその意味とは何かについてのSartreの考え方を、次章で取り上げます。

4、怒りの第二段階についてのSartreの考え方
 Sartre(1939)によれば、感情的になることの意味は、魔術的理解による世界の変形作用です。例えば、怒りの第二段階で見られる魔術的変形作用とは、不本意な事態から逃避するため、興奮し安直に誰かを悪者にすることです。私たちは不本意なときアラジンが魔法のランプをこすり大男を呼び出したように怒りを呼び出し、怒りを後ろ盾にして「あいつが悪い!」と決め付けます。つまり本来なら事態の複雑さに沿って行うべき、きめ細かな対応(例えば、相手の言い分を聞くとか、不本意さの複雑な背景を研究するなど)を怠り、都合のよいセルフ・イメージ「間違っていない私」へ逃避し、自身を正当化して相手に責任転嫁できる、都合のよさのゆえに私たちは怒りを選びやすいのです。
 この魔術性を自覚すれば、私たちは次のような浄化的反省(ある種の気づき)に到達できます:すなわち「私が彼を憎らしく思うのは、私が怒っているからだ」と。言い換えれば、私が彼を憎らしく思うのは、腹を立てるというお呪(まじな)いによって、被害者の立場を選び、都合よく彼を悪者に仕立て上げているからだ、ということになります。私たちは、この気づきによって、「怒りっぽさ」(怒りの第二段階)から距離を取り、自身のあり方を選び直すことができます。
 私たちは都合の良さのゆえに、みずから選んで怒りの第二段階に移行しています。よって、それからの回復も自身の努力によって可能です。ただし非力動的観点から努力概念を脱構築することで得られる新たな努力概念「気づきや工夫」によってです(田嶋、2013)。
 ところで、怒りの第一段階が、その根底に「驚き」(新鮮な発見)を含んでいることを指摘したのはDescartesです。それを次章で見て行きます。

5、怒りの第一段階についてのDescartesの考え方
 Descartes(1649)は、「驚き」を、あらゆる情念のうち最初のものとして、また最も根底にあるものとして取り上げ、次のように述べています。
 「なんらかの対象と初めて出会うことで、わたしたちが不意を打たれ、それを新しいと判断するとき、つまり、それ以前に知っていたものや、あるべく想定していたものとはなはだ異なると判断するとき、わたしたちはその対象に驚き、激しく揺り動かされる」
 Descartesによれば、「驚きとしての怒り」「驚きとしての悲しみ」「驚きとしての悦び」などとなり、どんなに不快で受け容れ難い「怒りの第一段階」も、「驚き」を根源的に含むことになります。ゆえに「驚きとしての怒り」は、すでに述べたフラストレーション(意外感)と等価であり、まだ見えていなかった事実(真実)と出会うことによって、私たちがまだ気づいていない都合が悪い事実とその意味に気づく貴重な機会を提供していると言えます。

6、私たちにとっての怒り
 例えば9・11や3・11で突発した多くの怒りやその反動としてのアパシーにおいて、とかく、私たちはパターン化した被害者的な「怒りの第二段階」に滑り落ちることが多かったようですが、そうではなく、「怒りの第一段階」に踏みとどまって、いま自分が体験している「怒りの第一段階」すなわち「驚きとしての怒り」において、私たちが、どのように今まで見えていなかった事実(真実)と出会っているのか、そして私たちがまだ気づいていない都合が悪い事実とその意味に気づく貴重な機会に遭遇しているのか、そのことを見て行くという立場に立つのならば、しばしば「義憤」を感じながらも、自身の怒りの内実を精査しつつ現実に向き合おうとしている私たちにとって、怒りはさらに大切な手がかりとなることでしょう。
 怒りの二つの段階を分離した上で、「怒りの第二段階」で起こっていることの意味に気づくことによって、「怒りの第二段階」(怒りっぽさ)から距離を取ることができます。そして「怒りの第一段階」(驚き)のアンテナを高くかかげることによって、現代に蔓延するアパシーをも超えることができるに違いないのです。

   引用文献
Descartes,R. (1649). Les passions de L'ame 谷川多佳子(訳)(2008). 情念論 岩波書店.
Sartre,J.P. (1939). Esquisse d'une Theorie des Emotions. Paris: Hermann.竹内芳郎(訳)(2000)
 自我の超越 情動論粗描 人文書院.
Seneca,L. A. (41) .De Ira. 茂手木元蔵(訳)(1980) 怒りについて 岩波書店.
田嶋清一 (2013)フラストレーション現象の再吟味によって動機に関する「非力動的な考え方」とは何かを明確にする
 理論心理学研究,2012・2013 , 1-14.
湯川進太郎(2005) バイオレンス―攻撃と怒りの社会心理学― 北大路書房.

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