タイトル: 『フラストレーション現象の再吟味によって、動機に関する 「非力動的な考え方」とは何かを明確にする――ジェームズ, W. とベルクソン, H. の考え方に基づいて――』
(『理論心理学研究』2012・2013第14巻・第15巻合併巻〔2013年12月27日発行〕1頁~14頁掲載論文)
Clarification of the “Non-Dynamic View” of Motivation through the Reconsideration of the Frustration Phenomena: Based on the Ideas of W. James and H. Bergson
田 嶋 清 一(立正大学心理学部)
キー・ワード: フラストレーション、動機に関する非力動的な考え方、認識としての努力、気づき、意志心理学

はじめに

 心理学辞典によれば、「フラストレーションは、欲求不満や欲求阻止と訳され、有機体が目標へ到達するための欲求充足行動の途中で、何らかの障害によってその行動が妨害された状態をさす」、または「欲求阻止の結果としてもたらされる不快な緊張状態をさす」、そして「有機体は、欲求不満という不快な緊張状態を解消するために何らかの対処を行う」(中島ら, 1999, p. 755)とされている。しかしフラストレーションとは、「解消する」べき「不快な緊張状態」であろうか。本稿は、そうではない、との観点に立ち、これまで論じられてこなかった新しいフラストレーション観を提案する。すなわち、フラストレーションの根底に何らかの緊張・圧力を想定する考え方を「力動的(dynamic)」と名づけ、その考え方(力動論)に疑問を投げかけると共に、緊張・圧力の想定に反対する考え方を「非力動的(non-dynamic)」と名づけ、その考え方(非力動論)を新たに提案する。
 本稿の目的は、フラストレーションの現れ――苦しみ――の中で、自身のあり方を選び直そうと努力している私たちにとって、「フラストレーションとは何か」を明らかにするために、フラストレーション現象について、力の概念を持ち込まず非力動的観点から再考することであり、さらにそこから、動機に関する「非力動的な考え方」とは何かを明らかにすることである。
 この目的のために、Ⅰ部(Ⅰ~Ⅳ章)では、フラストレーション現象理解の問題状況を概観し、理解を深めるための方法論を考察する。Ⅱ部(Ⅴ~Ⅵ章)では、フラストレーションとは何かを非力動的観点から再考し、さらに非力動的観点とは何かを総合的に考察する。各章の内容は、まず問題状況を概観し(Ⅰ章)、それを踏まえて、Bergson(1934)を手がかりに、習慣的理解としての「力動的な考え方」を分析する方法論を示す(Ⅱ章)。そして「力動的な考え方」の形成過程を分析し、その根底にある思想を明らかにする(Ⅲ章)。次にフラストレーション現象を現象に即して理解するための方法を、James(1909)を手がかりに考察する(Ⅳ章)。その上で、「意志」に関するJames(1892)の非力動論に立ち、非力動的観点をフラストレーション現象理解に適用する(Ⅴ章)。以上の考察に基づき、「力動的な考え方」の問題点を示し、問題点との対比から、フラストレーション現象理解の基盤となる、動機に関する「非力動的な考え方」の本質を明確にし、そこから帰結する「努力とは何か」の非力動的見解を示す(Ⅵ章)。

Ⅰ部 問題状況の概観と方法論的考察

Ⅰ章 フラストレーション現象理解の問題状況の概観

1. 従来の力動的捉え方、その問題点と、新たな提案

 フラストレーション(欲求不満)には冒頭で示した定義の他に各研究者による定義がある。例えばFreud, S. によれば、「用語の統一のため、欲求が満足されないことを欲求不満(Versagung)〔…〕という言葉で表すことにしよう」(Freud, 1927/2011, p. 9, 田嶋訳語改訂)とされている。「欲求が満足されないこと」という点では、その他の定義でも概ね共通であり、例えば「発動された目標反応が行動系列の中途で干渉を受けた場合を欲求不満という」(Dollard, Doob, Miller, Mowrer, & Sears, 1939/1959, p. 9)とされ、また「生活体が目標反応の過程に於いて、何らかの障害によってその際の要求満足を妨げられることがフラストレーションである」(佐治, 1966, p. 164)とされている。
 しかしフラストレーションを、欲求が満足されないこと、及び不快な緊張状態として力動的に捉える限り、欲求と欲求不満の区別がつかず(Ⅲ章2参照)、欲求を満足させるか、不快な緊張状態を解消する以外に対処の方向性が見えない。これは問題である。本来、私たちは熟慮の上、思いがけない事実に沿って新たな見通しを立てる、という努力によって、フラストレーションに対処できる。そこで筆者は独自にフラストレーションを、思いがけない事実に出会って見通しが損なわれた状態(意外感や苦しみ)、と捉え直すことを提案する。それによってはじめて、見通し(計画性)の回復という目指すべき方向が明確になる(Ⅴ章1参照)。

2. 動機に関する力動的な考え方と非力動的な考え方

 前節で示した従来の捉え方の背景には次のDeweyやWundtに典型的に見られる「力動的な考え方」がある。
 Deweyによると、「目的を実現しようとするとき、私たちを突き動かすものは不満感である。あるものが、いかに強く欲望されようとも、または、いかに固く選択されようとも、不満感(feeling of dissatisfaction)がなければ、意志作用は起こらず、求めるものは考え(idea)のまま止まる。考えは心に保持されても動かす力(moving power)を持たない。それは行為への動機ではあっても、行為の動力(motor force)ではないからである」(Dewey, 1891, pp. 368-369, 田嶋訳)。 
 Wundtによると、「動機は考え要素と感情要素に分けられ、第一要素を運動理由と呼び、第二要素を意志のバネと呼ぶ。猛獣が獲物を捕まえる場合、運動理由は獲物を見たことであり、意志のバネは飢えの不快感(Unlustgefühl)または獲物を見たことから生ずる種族的憎悪であろう」(Wundt, 1896, p. 218, 田嶋訳)。
 DeweyやWundtの考え方では、行動を起こすために、不満感や不快感や憎悪が不可欠だということになる。この考え方にとって動力は動機の不可欠な条件であり、動機の根底には何らかの動力(不満感・不快感・憎悪・怒り・恐怖などの感情)が想定されている。問題となる従来のフラストレーションの定義の背景には、「動力としての感情」を想定する「力動的な考え方」がある。現代の心理学の教科書の多数も「感情が行動を動機づける」としている。例えば、「感情は、何かの行動を起こすように私たちを駆り立てます」(山内ら, 2006, p. 173)、「情動は、怒りが攻撃行動を生じさせるように、行動を始発させる動機づけの働きをもつ」(鹿取ら, 2008, p. 219)など。これらから分かるのは、リビドーや動因などの動力を想定する精神分析や行動主義からArnold, M. B. の感情理論、交流分析、認知行動療法に至る現代心理学の多くに、「力動的な考え方」の観点が含まれていることである(田嶋, 2007, pp. 71-84)。
 一方、「動力としての感情」を想定しない「非力動的な考え方」を、古くは、行動の動機として怒りは役に立たないと考えたSeneca(41)に、また、独自の感情理論を唱えたJames(1890)に見ることができる。
 そこで本稿では、フラストレーション現象――思いがけない事実に出会って見通しが外れ、腹を立てたり、がっかりしたり、はしゃいだりしている私たちの姿――の再吟味によって、動機に関する「力動的な考え方」とは何かを論じ(Ⅱ~Ⅲ章)、それを踏まえて「非力動的な考え方」とは何かを明確にする(Ⅳ~Ⅵ章)。

Ⅱ章 方法論的考察(その1)Bergson, H.の方法

 本章では、Bergson(1934)を手がかりに、習慣的理解「力動的な考え方」を分析するための方法論を示す。
 Bergson(1934)は、多くの哲学者が知覚を概念に置き換えることを哲学と見る傾向に反対して、次のように述べる。「哲学が本来の面目を発揮するのは、それが概念を超えるときに限られる。または少なくとも出来上がった硬い概念から解放されて、〔…〕直観という逃げやすい形にいつでも当てはまるばかりになっている、しなやかで流動的な表現を創り出すときに限られる」(Bergson, 1934/1998, pp. 262-263, 田嶋訳語改訂)。
 この考え方に立てば、出来上がった硬い概念「欲求不満」から解放され、しなやかで流動的な表現を創り出すときに哲学は本来の面目を発揮する。本稿は、この考え方に立ってフラストレーション現象を振り返る。 
 さらにBergson(1934)は次のように述べる。「変化の問題が肝腎である。〔…〕変化を捉える努力をすれば、すべてが簡単になるはずであるが、そうならないのは、ふだん私たちが変化を眺めてはいるが知覚してはいないからである。〔…〕変化を見るには知覚に注意を集中し、知覚を偏見のヴェールから解放する必要がある」(Bergson, 1934/1998, pp. 204-205, 田嶋訳語改訂)。
 この考え方に立てば、変化そのものであるフラストレーション現象を、私たちは眺めてはいるが、本当に見てはいない。「欲求不満」という言葉を習慣的に紋切り型に使っているだけである。フラストレーション現象を見るには、捉える努力「見ようとする努力」が必要である。それはどんな方法によって可能だろうか。
 Bergson(1934)によれば、その方法とは、これまでの哲学のように知覚を概念に置き換えることではなく、一つの知覚を拡張深化することである。知覚を生活の用途に利用しようと考えない芸術家たちは、例えばコローなりターナーなりが自然のうちに私たちが無視し気づかずにきた細やかな眺めを見てとったように、知覚の拡張深化が可能なことをすでに示している。芸術が特権的な芸術家のために行っているこの知覚の拡張深化を、哲学が別の意味、別の仕方ですべての人のために試みる方法とは、注意力からその眼隠しをはずし、生活の要求が押しつけている窮屈な習慣を棄てることである(Bergson, 1934/1998, pp. 209-217, 要約)。
 この考え方に基づき、私たちがフラストレーション現象を見ようとするとき、見ることを妨げる眼隠し(偏見のヴェール)がある。その一つが、緊張・圧力を想定する習慣的理解としての「力動的な考え方」である。これを分析することがフラストレーション現象という濃厚な現実を「見ようとする努力」になり、「非力動的な考え方」の本質をも明らかにする。筆者はそう考え、次章でこの考え方(力動論)の形成過程を分析する。

Ⅲ章 力動論:現象に即した理解に対する変形作用

 本章では、まずパラドックス(逆説)「アキレスと亀」において、James(1909)とBergson(1934)を手がかりに、運動の根底に「不動なもの」を想定する習慣的理解は本来あり得ないことを示す。次に逆説「欲求があるとは欲求不満のことである」において、欲求の根底に「不動なもの」と「動かす力」を想定する力動論は、フラストレーション現象の運動や変化をあるがままに認識できず、現象に即した理解に対する変形作用であることを示す。ここで逆説、つまり「容認し難い結論へ導くもっともらしい推論」を取り上げる意味は、論理矛盾を脱する工夫が、新たな展望を開くことにある。

1. ゼノンのパラドックス(逆説)「アキレスと亀」

1)主知主義的な興味のゆえに行われる「変形作用」
 James(1909)が運動と変化を論じる中で取り上げたゼノンの逆説「アキレスと亀」とは、以下の話である。スタートのA地点を亀が先に出発し、後からアキレスが追いかけ、競争をした。アキレスはやがて簡単に亀を追いこすと予想される。しかしゼノンによれば、アキレスは決して亀を追いこせない。なぜなら、アキレスがA地点から走り始めたとき亀がすでに到達していたB地点までアキレスが辿り着くのに多少の時間はかかるはずであり、亀はその間にさらに先のC地点へと少しすすむ。またアキレスがB地点から亀のいたC地点まで辿り着くのに多少の時間はかかるはずであり、亀はその間にさらに先のD地点へと少しすすむ。これは次から次へと限りなく続くはずであり、ゆえにアキレスは決して亀を追いこせない、とゼノンは言う。 
 さて、ゼノンの逆説「アキレスと亀」では、時間と空間は無限に分割可能だから、アキレスは亀に決して追いつけないと考えられている。しかしJames(1909)によれば、私たちの感覚・知覚の経験を観念的に無限に細かい部分に分解することは、主知主義的な興味のゆえに事実に人工的な切れ目を刻みこむことであり、 経験の秩序を概念の秩序に変えてしまう「変形作用」(transformation)である。これは知性にもともと内在する作用であり、その現れが逆説「アキレスと亀」である。「運動とは連続する時間点に対応して連続する空間点を占めることである」との定義によって時間と空間を分離し、ひそかに空間だけで考え、空間を無限に分割・分解し、あるがままの経験を変形させるやり方を取れば、その定義は無限に指定可能な位置を与えるが、指定された位置(不動)はいかに多数でも運動の要素を含まない。ゼノンは議論でこの位置のみを問題にしたので、私たちの知性は運動を非現実とみなさざるを得なかった。この「変形作用」の背景には、主知主義的歪曲が習慣的に行われた歴史がある。Jamesは、概念が知覚から抽象された不十分な代用物に過ぎないのに、プラトン以来、知覚の流れを概念で捉えることによって恣意的・人工的に変形させる主知主義的伝統が続いているとの文脈で次のように述べる。 
 「私たちは、論理的思考が真理に通ずる唯一の道であるとする哲学的伝統に慣れているので、言語に表現されていない、なまの人生に立ち返り、そこに真理を求め(傍点田嶋)、概念のことを、ベルクソンのように、単に実用的なものにすぎない、と考えることはとても難しい。それは、私たちが誇る知性の発達を脱ぎ捨て、理性の目から見れば再び小さな子供のように愚かになることである。しかしこの革命はこのように難しいが、私が思うに、現実を手に入れるのに他の方法はない」(James, 1909/1961, p. 209, 田嶋訳語改訂)。
 私たちに主知主義は根深い。私たちは正しさの概念に頼り、誰かを悪者にして自分を正当化するが、なまのフラストレーションに立ち返り、その気持ちに丁寧に寄り添うことはしない。主知主義は、知性化という理屈に頼るあり方を生み出す。知性化は、個人の問題というより、私たちの文化に浸透したテーマである。しかし、このテーマへの対処として、「私たちが知的な問い方をやめるとき」(James, 1902/1970, 下 p. 198)、Jamesの言う言語に表現されていない、なまの人生に立ち返り、そこに真理を求めることが可能になる。例えば、リラクゼーションにより「潜在する安らぎ」が、黙想により「沈黙の豊かさ」が、フォーカシングにより「存在の不思議さ」が、それぞれ開示されることは、体験が示す通りである(田嶋, 2007, pp. 198-206)。 
2)「運動は不動からできている」との習慣的理解
 Bergson(1934)は、逆説「アキレスと亀」におけるゼノンのやり方――アキレスの駆け足を、アキレスが通過した空間と同様に、任意に分解できると認め、経過が実際に経路に当てはまると信じ、運動と不動とを混同すること――は、まさに私たちの習慣的方法であるとしている(Bergson, 1934/1998, pp. 226-227)。
 「運動は不動からできている」との理解に基づく、この習慣的方法により、James(1909)の言う「変形作用」も行われている。ゆえに本来の理解に基づいて、「アキレスの運動という行為は、彼が通過した空間とは同一視できず、運動や変化は本来、時間の現象であり、位置の系列(不動)としては理解できない」との認識がゼノンのパラドックス(逆説)を解く鍵になる。
 しかしフラストレーション現象は、「意識の流れ」(次章1参照)として運動や変化であるが、その現象への習慣的捉え方を振り返れば、そこには「不動なもの」がすでに想定されている(例えばDeweyの言う「考え」)。この想定が「動かす力」を導入する経緯を次節で見る。

2. 逆説「欲求があるとは欲求不満のことである」

 「欲求があるとは欲求不満のことである」は、Deweyらの力動論に潜在する考え方であり、前節で示したゼノンの考え方「アキレスは亀を追いこせない」が逆説(容認し難い結論へ導くもっともらしい推論)であるのと同様に、逆説である。なぜなら、Deweyらが言うように、考えだけでは行動できず、行動を起こすには、欲求の根底に「動力としての不満感や不快感」などの感情的要素が不可欠であるとする限り(Ⅰ章2参照)、そのような欲求は、「欲求不満という不快な緊張状態」〔心理学辞典(中島ら, 1999, p. 755)による定義、はじめに参照〕と区別がつかないので、「行動を起こすには常に欲求不満状態でなければならない」という容認し難い結論へ導かれることになるからである。上記の定義はさらに、「有機体は、欲求不満という不快な緊張状態を解消するために何らかの対処を行う」としている。このDeweyらの観点に立てば、私たちは考えだけでは行動できず、欲求及び欲求不満という動力や緊張に駆り立てられるしかないことになるが、果たしてそうか。いま実現できない願望は別にして、実現できる欲求においても、確かにそのことを考えるだけでは行動できないように見える場合がある。例えば受験勉強しようと思っても中々取り掛かれない場合のように。しかし、「意識の流れ」を想定した上で、動機の根底に動力は必要ないと考えるJamesの観点に立てば、この場合は標準でなく、本当は別のことをしたい考えにより干渉を受けている特殊な場合であり、干渉する別の考えさえなければ、常に考えた通りの行動が起こる(Ⅴ章2で詳述)。ゆえに一般に欲求や欲求不満の根底に動力や緊張は必要でなく、欲求とは行動が従うための見通し、つまり「ある状況で目的に向けある手順を踏めばある結果が得られる」という目的-手段に関する計画案(考え)である。見通しが損なわれた状態(欲求不満)の中でも熟慮の上、事実に沿って新たな見通しを立てれば、私たちは思いがけない事実に対処できる。
  このように動力や緊張を想定しない立場では、欲求と欲求不満の区別は明確である。よって上述の逆説は、 Dewey(1891)やWundt(1896)などの「力動的な考え方」の上にのみ成り立つことが分かる。この「力動的な考え方」とは、行動の根底に、それ自体では動かない「不動なもの」をあえて想定する考え方である。この「不動なもの」とは、例えばそれ自体では動力を持たないDeweyの言う「考え」を指す(Ⅰ章2参照)。それと対比的に、Jamesの言う「考え」は、意識の流れを前提として行動を直接に引き起こす(Ⅴ章2参照)。
 それ自体では動かない「不動なもの」をあえて想定することは、容易に推定できるように、暗に「不動なもの」とのセットとして、それを「動かす力」を――ちょうど「蒸気エンジン」を動かす「蒸気」のようなものとして――導入することに繋がる。もともと運動であり変化でもある私たちの行動(例えばフラストレーション現象)の根底に「不動なもの」を想定し、行動を引き起こすためには、さらに「動かす力」(不満感や怒りなど)を導入する必要があると考える「機械的習慣的理解」こそ、Deweyに代表され、実は私たちがとかく傾倒しやすい「力動的な考え方」である。この考え方の根底には、モーターが動き出すのに電力が必要であるのと同様、人間の行動にも動力が必要であるとする、自然科学を手本として精神現象を量と力に置き換える思想がある。Freud, S. も動力を導入し、「リビードとは飢餓とよく似ていて、欲動、いまの場合は性欲動で、〔…〕その性欲動が発現する際の力のことを謂います」(Freud, 1917/2012, p. 324)としている。
 しかし動力を導入せず非力動的観点に立てば、欲求とは目的と手段を含む見通しとしての動機であり、欲求不満とは計画性(見通し)が損なわれた状態である。
  こうして欲求と欲求不満の区別が明確になれば、欲求の根底に「動かす力」をあえて導入する、「力動論」という変形作用は成り立つ余地を失うので、私たちは逆説「欲求があるとは欲求不満のことである」から抜け出し、新たな展望「非力動論」を開くことができる。

Ⅳ章 方法論的考察(その2)James, W.の方法

 本章ではフラストレーション現象などをあるがままに理解するための方法論を、Jamesを手がかりに示す。

1. 内省と共感的理解による概念の再吟味

 Jamesは知覚と概念を対比させ、活動と変化に満ちた人生の豊かな内実(知覚の世界)は、概念的認識によっては十分にその真意が理解されず、内省と共感的理解にのみ自らを開く、との文脈で次のように述べる。
 「現実の濃厚さ(thickness)を本当に理解するには、自分は現実の一部なのだから、現実をじかに体験してもよいし、誰か他人の内的生活については、共感を通して推測することによって現実を想像の中に呼び起こしてもよい。しかし、この二つ以外の道はない」(James, 1909/1961, p. 192, 田嶋訳語改訂)。   
 なぜなら、James(1911)によれば、概念は日常生活で私たちを導く巨大な地図として重要であり役立っているが、以下の短所があるからである。つまり、すでに生きて動いているこの意識世界(知覚の流れ)を理解しようとして、言語化することで概念の地図を作ろうとすると、作られた地図は「現地そのもの」(私たちの体験そのまま)ではないので省略や歪曲が起こり、本質的特徴が失われる。「犬」という概念は咬みつかないし、「雄鶏」という概念は時を作らない。私たちは今の事実を「知覚の流れ」でのみ知るのだから、認識作業に際しては、この濃厚な「知覚の流れ」を拠り所にすべきである(James, 1911/1968, pp. 307-311, 要約)。
 こうしてJames(1892)は、「意識の流れ」(知覚の流れ)を丁寧に観察する限り、動機の根底に動力の概念を導入する必要はない、動機の説明に動力という既成の概念を持ち込めば、動機それ自体に即した理解が歪曲されると考え、DeweyやWundtなどの力動論とは原理的に異なる非力動論に至った(次章2参照)。  
 本稿の研究方法は、James(1892, 1909, 1911)の考え方「既成の概念化に頼るのでなく、自己については内省、そして他者については共感的理解によって、豊かな『意識の流れ』を観察すべきである」を具体化し、概念の再吟味をさらに進めることによる。すなわち、田嶋(2007)が述べているように、フラストレーション現象という濃厚な現実を、その利点や弊害を含めて丁寧に内省し、共感的理解が可能になる当事者との率直な対話を行い(次節参照)、体験に近い言葉を用いてそれらを記述する、という方法を基本とする。

2. 「共感的理解が可能になる率直な対話」とは

 非力動論と通底し、私たち個々の経験の多様性と修復可能性を認めるJamesの多元論によれば、「多元的宇宙の不完全さは、私たちの行動によってその非連続性を改善することにより修復される」(James, 1909/1961, p. 250, 要約)。また「世界の全ては誰かによって知られるかもしれないが、一人によって知られるわけではない」(James, 1911/1968, p. 334, 要約)。ゆえに多元論としては、誰かとの対話が必要とされる。
 例えばJames(1899)は北カロライナの山中を旅行し土地の人が「山かげ」と呼ぶ開墾地を馬車で通った時の様子を述べている。「私はひどく汚いな、と感じた。移住者は樹木を切り倒し丸太小屋を建て、まわりに豚や家畜を飼い、雑然とトウモロコシを植えていた。無残に荒れた森の生活は醜悪に見えた。私は憂うつになり、馬車を進める山の男に言った。『この辺で新しく開墾をやらされているのはどんな人達なのかね』『わしらは皆そうですよ。わしらはね、ここらの山かげのどれかを開墾していないと面白くないんですよ』と御者は答えた。私はハッと気がついて、今まではこの状況の内面的意義をすっかり見落としていたのだ、と感じた。この開墾地は、私には網膜に映る殺風景な一情景に過ぎないが、開墾者達には数々の努力の記憶を蘇らせる象徴であった」(James, 1899/1960, pp. 228-230, 要約)。
 開墾者達の独特な理想に盲目であり憂うつになっていたJamesは、対話から気づきを得て自身のあり方を選び直した。私たちは不完全さを修復するために、理想を異にするかも知れない誰かとの共感的理解が可能になる率直な対話を必要とする。よって前節で示したように、本稿の方法は内省と対話と記述を基本とする。

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